横浜市会議員斉藤達也公式ブログ

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横浜市会議員斉藤達也(さいとうたつや)公式ブログ

【戦後の日本の復興に、海外の日系人が貢献してくださいました。】 JICA横浜の近くにある新港埠頭に、LARA物資の記念碑があります。 ララとは、“Licensed Agencies for Relief in Asia”(アジア救済公認団体)の頭文字をとった略称LARAのことです。

【戦後の日本の復興に、海外の日系人が貢献してくださいました。】
JICA横浜の近くにある新港埠頭に、LARA物資の記念碑があります。
ララとは、“Licensed Agencies for Relief in Asia”(アジア救済公認団体)の頭文字をとった略称LARAのことです。
ララは、1946年6月、アメリカの宗教団体、社会事業団体など13団体が加盟して組織され、アメリカだけでなく、カナダ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチンなどから寄せられた救援物資をとりまとめて日本へ送りました。
ララ物資は、1946年11月30日に横浜に到着。その後1952年までに 16,000トン以上の物資が届きました。
当時の日本では、ララ物資は「アメリカからのおくりもの」というイメージでした。しかし、このララ物資は、アメリカをはじめとする海外の日系人からのおくりものでもあったのです。
アメリカでは、戦争中、一世はもちろん、アメリカの市民権を持つ二世でさえも強制収容所で、敵国人の扱いを受け、つらい生活を送っていました。終戦により、収容所から戻ってきた日系人たちは、財産を失い、まさにゼロからのスタートでした。それでも、食糧不足に苦しむ日本の実情を知り、アメリカ各地で「祖国日本を救済しよう」という運動が起こりました。
戦後の学校給食は、ララから給食用物資として贈られた脱脂粉乳(スキムミルク)や缶詰などが用いられ、食糧が不足していた日本で成長期の子どもたちの栄養不足を補うために始められました。特に、脱脂粉乳は栄養価が高く、多くの児童が栄養失調から救われました。
現在の学校給食の牛乳も、このミルク給食がもとになっているのです。
1946年12月24日、ララからの給食用物資の贈呈式が行われ、試験的に、東京、神奈川、千葉の25万人の児童に対して学校給食が行われ、翌年1月、全国都市の児童300万人に対し行われるようになりました。

この記念碑が、みなとみらいの新港埠頭にあります。香淳皇后陛下の御歌が紹介されています。
ブラジル日本移民110周年を祝う横浜市民の会のメンバーで見学し、元JICA職員の小林正博さんから説明を受けて理解を深めました。

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